
ミホ~ミホちゃん→ミホコ→ミホコばーばん→ミホばぁ
母の名前は森本美保子。“美しさを保つ子”やて、さすが静ジイ!ミホちゃんの郷里は豪雪地帯で知られる越前福井大野郡。
母の話だと只一度だけ2歳の僕を背負い、早春の大野へ行ったと言う…だが僕の記憶は何も無く真っ白けのけである。
中学生の頃だったか、若尾文子が見たくってタカトシ君と観た映画 “越前竹人形” でどうにか福井の一片を知ったように思う。
折に触れ母が自慢げに語った小学生の頃の思い出話の一つだが…
母も近所の友達3~4人連れ立って、竹を鉈で割っただけの粗末な竹板を履き、一里ほどの雪道を滑り学校に通ったという…。今で言うクロスカントリースキーである。
ストックは?と聞くと「ほんなもん小枝一本でええ」って~恐れ入りました。
なんでも祖母マサがミホちゃんの背中に新聞紙を折リ込み家を出る、そして学校に着くとすぐさま友達同士でお互いの新聞紙を抜き取る~すると新聞紙が汗でビッショリだったと言う。
僕が大阪から上京した数年後、兄と僕の生活ぶりを観察に来た母が「ほんなもん飯粒で釣れる」と、昨日奥只見仕入沢から持ち帰った尺超え岩魚(※1)を見て呟いた。
実家が九頭竜川上流の支流にあり、飯粒は別としても幼い頃から岩魚を釣っていたのはどうやら事実で、この岩魚釣りも遊びではなかったようである。
※1:エルクヘア・カデイス#12(ドライフライ:水面に浮かぶ毛鉤)に来た岩魚、母をビックリさせようと思ったのだが返り討ち…無念じゃ。
母方の先祖の系図を見せてもらった事がある…母の話だと、お遍路さんが多く信仰心が強かったようだ。
旧姓は大西で、祖父の名は静(しずか)と言う。 たった一枚残っていた写真から察しても、やはり母とは瓜二つで、ロイドメガに髯を貯えた風貌は僕にも似ている。
その貴重な写真や思い出の品々は阪神淡路大震災で全て消え、残ったのは着の身着のままの母だけだった。
1920年(大正9年)産まれの母は、幼い頃から奉公に出ていろんなことを学び覚えたと聞いている。
まず同じ福井の若狭湾に面した車坂に赴き、その後も何軒か勤め先を変えている…。
やがて…東京大田区に長く奉公していたようだ。そう、だから僕達は幼い頃から関東食文化の“納豆”を食べていたのだと思う。
母は東京中野時代に何度か遊びに来たが、僕達が品川の八潮に越したのを機に「死ぬまでに一度大田区の奉公先を見たい」と改めて上京した事がある。
1980年(昭和56年)秋とは言えとても暑い日だった。 奉公先は東急多摩川線鵜の木辺り、品川八潮から中原街道を洗足池に向かった、この辺りの地理はあまり得意ではなく、いつも迷う。
やはり…田園調布に迷い込んだ~さすが環境の良さそうな閑静な住宅街だ~多摩堤通りを戻った。
「この辺や…」と母は遠い記憶を遡っていた。
国鉄高架下を過ぎた所でスイッチが入ったようだ 「ここや…あぁ行き過ぎや」と懐かしげに呟き、どうやら満足したようである。
帰り道、大井町の味噌屋の大きな樽を見て「此処まで味噌買いに来たわ」と言うが、片道7、8キロはある、突然「そば食べたいなぁ」と珍しく我がままを言う。
急遽五反田から山手通りを新宿に向かったが道は何故か空いていた。新宿明治通りから靖国通り…お目当ての『ヘぎソバ』に来た?なんだ定休日か…日曜日だったんだ。
年中無休で仕事しているから(仕事がノロいから休めない)曜日感覚全くなし、生蕎麦買って帰路に着いた。
~マァ→マァぼう→マサカズさん→マァのおいやん→マァじぃ
初夏になるとアカシヤの花も一斉に咲き誇る、満開の淡い香の黄花は目にも心にも暖かくやさしい…はたしてココ大阪で見ることが出来るだろうか。
若し大阪にアカシヤの並木があるなら…♪たった今 恋をしそう…
イントロがとてもお洒落な~♪アカシヤ並木の黄昏は 淡い灯が点く喫茶店…二人並んで向き合った 小さな赤い椅子二つ モカの甘い香りがにじんでた…こんな感じ。
この曲、女性歌手が歌っている、何処かで聴いたお声なんだけど、何気なく聴いて感激したのはたしか20年ほど前。
2番か3番か“聴いたショパンのノクターン”の“タ”が“ト”と鼻の奥でハモってたまらなく素敵なマダムって感じ~い…チョッとやばくなって来たぞ…。
日曜の午後にやっていたFM放送の、ハカマさんだったか『日曜喫茶室』?って言ったか、リクエストで流れたほんのり短い曲、この記憶や歌詞は違ってるかもしれない。
でもいい、とにかくいいワルツ…だと心耳にはしっかり残っている。タイトルは『喫茶店』か…『アカシヤ』…かその辺り。
とにかく慌ててエアチェックしたんだけど、この曲あっと言う間に終チャッて、何時もはスタンバッテいるんだけど…また何時か何処かで偶然に出会いたい曲。
でもさぁ、遠いあの日の曲って西洋も和も何故か短いよね(僕だけが思っているのかも)…どなたが言ったのか、歌は“3分間のドラマ”だって!ステキな表現ですね。
んでね、たいがいの曲は3番までだからもっと聴きたくて4番5番の歌詞を必死考えるんだけど、やっぱり完璧に終わってるは…空しい挑戦でした。
父 正一は、森本清吉と旧姓小西ラクの、男4人兄弟の次男として1914年(大正3年)和歌山に生を受けた…そうか!僕のルーツは“大西・小西”君恋しなんだ? ※夢路ひとし 君こいし…っていう一世を風靡した漫才コンビが居ましたよね。
父正一は とにもかくにもよく食べて呑み、よく働いてメ一杯遊んだ人…それに南海ホークスの大ファン~いいやぁ~ホークスキ××イ…これ“ファン”を超越している。
和歌山生まれの父がいかにして東京で奉公していた母と…何時どのようにして出会ったのか?モット詳しい話を聞いておけば良かったのだが…反省。
母が東京の奉公先から西下したのは事実、しかし父との出会いが東京なのか大阪なのかは明確では無い~だが大阪に出た母が、界筋の喫茶店で女給をしていたとは聞いた。
…おそらく大のコ-ヒー好きだった父は、喫茶店の片隅で…美人だった母に一目惚れをしたに違いない、いいじゃない!そう言う事にしておこう。
これは戦時中の話で、新婚当時は大阪に住んでいたようである。
兄 雅久が生まれたのは僕より9年早い1938年(昭和13年)、兄の誕生と父の徴兵後、母は姉をお腹に抱えながら兄を連れ、和歌山の花園村に疎開したのだろう…。
父は大日本帝国陸軍で機関銃隊一師団(この写真も震災で消えてしまった…くっs!)を預かり、中国大陸で戦った話を良く聞かされた。
数ある話で凄いと思ったのは、突撃ラッパの一瞬!敵の弾が右の頬から左の頬へ貫通し九死に一生を得たと言う。あと数センチずれていたら…。
父は徴兵まで大阪日本橋高島屋の一角(近くだったか…?)で喫茶店を経営し、千五百円ほどの貯金もあったと母が言っていた。
そんな素晴らしい人生がこれからと言うときに、戦争に行ったのは“ジョニー”だけじゃ無かったのだ、でも何で戦争なんかが…戦争を知らない僕が言っても仕方が無いことだけど。

