第一部
弁慶の泣き所――――――
飼育スタート時、わずか3~4センチほどだった赤坂見附都バスとも、いよいよお別れする時がやってきた。東京ベイを一望する、品川八潮団地47号棟10F1006号で早3年。もはや90センチ水槽での、元気はつらつ青年バスの飼育は不可能である。
別れの朝、4尾のバスがいつもと様子が違い、何となく落ち着きがない…もしや地震予知? そう言えば別水槽で、かなりでかくなったウナギも砂利底から抜け出し珍しくはしゃいでいる…こいつはやばい。昨夜与えておいたミノーはすべて消えている。なのに今与えている最後の小魚には反応しないのは何故?どうしたんだ~と^その時いきなり激しい縦揺れが^が^が^と来ちゃったら困るよね。
午後になり、水槽からバスと残り僅かな雑魚たちも一緒に、ビニール袋に移し替えた。それを引っ越しサカイ・パンダ便段ボール箱に入れ置いた。通称ぼこぼこ、ポータブル・エアレーションON~ふと気が付くと、誰もいなくなった90センチ水槽はもとより、これまで張りつめていた部屋の緊張感が音もなく消えていた。
遅いモーニングを済ませ、すぐさま赤坂見附へ向かった。
外掘通りに車を止め、ラゲージスペースのアングラーズハウス・ニーブーツ…あるはずが?無い。仕方なくチェストハイウエーダーに履き替えた。段ボールごとビニール袋を抱え、やや沖へ歩いた。そこは遠浅、水に浮かべた段ボール箱からビニール袋を取り出し、結びをほどいた。掘りの水を少し加え箱に戻した。どうだい、懐かしい味だろ^さぁ記憶よ蘇るがいい。まず1尾、バスを両手でホールド^ぷりっぷり、ナイスバディ。
まずは小さい魚体から、と言っても27センチほど。一尾ずつ丁寧にリリースした。だが何故か皆、僕から離れようとしない。
そりゃぁそうだ、いきなり環境が変わったのだから。でもここは君たちの生まれ故郷だよ。最後の一尾、これは30センチを超えている。やはり成長に個体差があるものだ。頭を一撫で、二撫で、両手でセオリー通りにリリース~行け^・・・行くんだよ。だが4尾とも、やはり僕のそばから離れようとしない。何時しか僕は、その場を立ち去ることが出来なくなっていた。
しばらくすると最初の一尾が対岸へ動いた^よしよし…まもなくもみじ亭前の深場の中に姿を消した。それを追うように2尾が続いた。ラストはお前だ~さぁ行け。すると前の3尾とは違う、弁慶橋の方にゆっくりと動いた。さようなら~達者でな、と^3メートルほど行って^PiPiPi!はいそこの都バス^ここ見付はUターン禁止です。
そうなんだ、一番でかい30オーバーが僕の方へ戻ってきちゃった。まじ、こんなのあり?見ると、彼は僕の足下50センチ手前でピタリ止まった。僕は思わずリリースした時のように、両手を水中に入れた。すると彼は僕の両手の中にそ~っと納まった。そうか、行きたくないなら連れて…いいや、もう僕たちはお別れする時。両手を解き、しばらく彼を見つめていた。やがてBバスは思い立っように身をひるがえし、僕の視界からゆっくり、ゆっくりと消えた。長い間ありがとう、達者でな^^^僕はしばらく東京赤坂見付弁慶豪で立ち往生、ここで男泣きしたのはおそらく僕だけだろう~Born free as free as the wind bloes~as free as the Waterweed …保留にしておいたこの下り^やりたくなかったけど、やってもた。

In the Early summer a.m. 9:00 On A Clear Day
大阪天王寺方面からMTBで颯爽と駈けてきた釣吉。
両手を軽く広げると、笑顔で快く泊まってくれた小年。
そうだ^アイスソーダがとっても似合っていた。
Bバッシングジュニアハイスクール―――――
Oscar Peterson 『You Can See Forever』それとも1967.Wynton Kelly『On a Clear Day』
その日は、まるでこのトリオ・ナンバーを聴いているような五月晴れ^実に爽快な日曜の朝だった。何時ものように、ルアーロッドを握った青少年の小さなグループがJR天王寺駅に集結していた。またマウンテンバイクにバスロッドと言ういでたちの少年が、1台2台と玉造筋を颯爽と北へ駈けて行く~別に◎少年保護観察所員ではないが思わず^PiPiPi!ねぇ君、そんなに飛ばして^いま何年生?「中○」そうなの^これから何処に、大阪城かな?「淀川」ちょっと遠いね。「うん まぁ」Bバッシング?「うん」釣れる?「うん^春から、めっちゃ釣れてる」ねぇ、ルアーその1個なの?「…うん」なくしたらどうするの?「帰る」そう、ありがとう^気をつけてね。「うん」なるほどなぁ^たった一つのプラグに総てを託す、それがこの少年の拘りなのか。彼の〝TACTICS〟…かっこいいと思はないか^見習いたいよ。
少年、今日のアプローチは大川毛馬から始めると言う。滋賀県琵琶湖からの瀬田川(宇治川)・京都桂川・木津川の流れが一つになり、約70km旅を終え大阪湾にそそぐ淀川。
天才タケボンが〝毛馬の肛門さま〟と呼んでいた◎毛馬の水門。この釣り場、今考えると、とても危険がいっぱいだった。ほんと柵もなにもない、大きく水が渦巻いている巨大プール。ほんと怖さ知らず、よくよく通ったもんだ。
1960年当時、ルアーフィッシングと言う言葉は、大阪のどこを探しても聞かなかった。
過去に釣り雑誌等で記載された記事などで有名な話だが~アメリカのBバスを日本へ持ち帰ったのは、日本の留学生赤星鉄馬なんて劇画っぽい名前の18歳の少年である。
それは1901年、と言う明治末期・・・へぇぇぇあのウォルト・ディズニーやマレーネ・ディートリヒがお生まれになっているのか^まだまだいろいろあるねぇ。いづれにせよ激動の時代である。そんな時代に鉄馬青年が〝食料〟として祖国に持ち帰ったブラックバス。この魚が初めて放流されたのが、ご存知箱根芦ノ湖である。この事実は、僕が生まれるほゞ半世紀前の事。
1970年大阪万博の年。上京した大阪育ちの僕には、東京の日常でもブラックバスなどと言う魚の名前は耳にしなかった。ブラックバスと言う魚と、その魚をルアーで釣ると言う遊びを教えてくださったのは、東京麻布十番釣り具〝銀水〟のオヤジさん~そしてバスの写真を初めて見たのがご存知世界的偉大釣り遊学雑誌・月刊『フィッシング』だった。そして釣ったバスを誇らしげに、お決まりのポーズをとっていたのが我らが友^サンタさん。
◎毛馬の口門…我が少年期、僕たちはせいぜいコイやフナ、雑魚をエサ釣りで楽しんだ場所である。淀川のこのバススポットへのアクセス、天王寺から約10km。桃谷からだと7~8kmほどだろうか。この距離、今MTBを蹴るヤングバサー達にとって決して遠い釣り場ではない。
◎少年保護観察 :19の頃だったと思うけれど、僕は二か月ほど保護観察生活を経験している。後に詳しくやりたいと思うが、所謂ひき逃げ犯として〝ぬれぎぬ〟を着せられ、一方的に犯罪者扱いになったわけである。まぁ逃亡者になるほどのものでもなかったし、人生途上で何等ネガティブな要因にもならなかったが~あのくそオヤジ&ポリ^訴えてやる!
第二部
公共空間ボーイズ―――――
大阪市天王寺公園。かつて野外音楽堂や図書館があったはずだが、いつの間にか消えてなくなったようだ。中でも特に僕の記憶に残っているのは、足蹴に通った温室植物園。それと、その前の多目的広場での催し物であるである。この話、今すぐにやりたいのだが^後送りさせて頂く。さて、公園の代表的な施設と言えば、大阪市立美術館と天王寺動物園や名園〝慶沢園〟がある。だがこの慶沢園、どうやら現在この庭園も含め、公園そのものも大掛かりなリニュアール進行中のようだ。
天王寺公園はその昔から、変わることなく今も大坂市民憩いの場である。その一つに、半世紀以上経った今も変わらない一つの大衆文化がある。それではここ一番ムッチーよろしくおたの申します~(^^♪吹けば~飛ぶような~ 将棋の駒に~かけた…回りくどいがな^実は天王寺駅から公園東側入り口には連日、どこからともなく多くの縁台将棋ファンが集う。おそらく少々の雨や風、雪にも夏の暑さにも負けず、多少の欲望はあるが決して瞋ることもないこともない、一塊の独立集団である。
そうだなぁギャラリーも含め、多い日には4~50人は居るだろうか。棋士たちのほとんどはリタイア組。たまに勤務中ホワイトカラーがサボタージュすることもある。棋士たちのレベル、決して高くはない。懸命に将棋を指す人、群がる野次馬。自分は指さないが黙っていられない解説者に評論家…ここに日夜熱い戦いが繰り広げられているのだ。たかが縁台将棋、されどその昔、プロ棋士顔負けの凄腕もいたと言うこの世界。
将棋腕自慢だった父の友達や、母が自慢げに言う事に、父^正一の指す将棋はプロ並み^そうとうな腕だったと聞いている。その父がこの縁台将棋をたまに立ち見したそうで、「※:すごい奴がおるもんや」と洩らしていたことがある。現状はどうか分からないが、1960年(昭和35年)ころには一局100円を投じる賭け将棋の世界だった。♪空に灯がつく通天閣に 俺の闘志がまた燃える・・・
◎縁台将棋、と言うか「領有による公共空間の居場所化に関する研究機関」なんて、わけの分からない報告書によると、またの名を「青空将棋」と言うらしい。僕も及ばずながら^恥かしながら、小学生のころから父 正一の訓育を受け、多少へぼ将棋をたしなむ様になってはいた。たまに父と対局の相手をさせられたものだ。だが、父の布陣は王将・金銀4枚と歩だけである。なのに…いつの間にか駒の数が逆転している。そうだなぁ…高校生の頃、たった一度だけだが、勝ったことはあった…いいや、きっと勝たせてもらったのだろう。
※:すごい奴~父が言うに、確かに凄腕が居たそうである。だがもう一つ、こともあろうに素人相手に〝いかさま将棋〟を指す公園の手品師が居たという…つづく

昭和11年落成・開館と言う大阪市立美術館。
とてもシックで洒落た建物である。
この日ちょうど『肉筆浮世絵展』が開催されていた。
でもさぁ、エントランスPOP、この色使いはどうかな…
まぁ人様のお仕事ですから、なにも申し上げませんが。
1970年大阪万博の年、売上世界一位になったと言う専売公社^その名もパンパカパァ~ン^今週の『hi-lite』僕も吸っていたこの煙草、旨かったよね。20本入りだが、中の3~4本にめっちゃ美味いのがこっそり入っていたように思う。この優れものが、70円から80円に値上げされた年でもある。確かコーヒー一杯も80円くらい?店によって違ったかな。
さて、僕は天王寺公園における、縁台将棋の生い立ちや、その変遷がどうだったのかは分からない。 ただかすかな記憶を辿ると、天気さえ良ければ多少暗くなっても闘いが終わることがななかった。この熱い戦い、賭け将棋に10局勝てば1,000円。一日指しまくって何千、いや何万も手にした必殺将棋指しがいたと言う。そんな昔、相手の厳しい詰めの一手につい^「し しもたがな、今のちょっと待ってぇや^な、たのむは」と漏らした一言で…こんなこと^いいや。
まぁ三面記事的なことはさておき、美術館のある一帯が所謂茶臼山。その小高い繁みは、本来何方かを葬った古墳跡だと言う。したがって、正式名称は〝茶臼山古墳〟なのかな。実はこの小高い丘は小学4年から中学入学当初、よく遊びこけた僕たち少年の大舞台だった。しかし、間もなく◎恐喝事件が多発するようになり、子供たちの足が徐々に遠のくようになったようだ。そう、現状はさておき、かつて天王寺界隈は非常に〝もの騒がしい〟ところだったのだ。
◎街頭犯罪認知件数:つまり街中で発生する犯罪。路上強盗ひったくり・窃盗・恐喝・暴力・自転車の暴走などなど。大阪におけるその発生件数は、過去15年連続日本一!あっぱれ^じゃぁないよ。
◎大阪人が〝ちゃぶせやま〟とか〝ちゃうせ山〟と呼ぶ茶臼山。 正式には〝ちゃうす山〟別名〝ちゃぶ山〟

公園の向こうに囲いができたんだってさ。「へぇぇ」なんて。
本来熱戦が繰り広げられているのは、塀の向こうである。
将棋盤も6~8面はあったと思う。だが公園只今リニューアル中。
そのため木陰に小移動。まぁどうにか3面が健在だった。
時代は変わったのか・・・どうやら縁台ではなくなったようだ。
棋士たちのご愛用は、ご覧のキャンプ用折りたたみ椅子にビーチパラソル。
ファン?からの差し入れ、缶ビールが氷水の中でスタンバイ。
写真の一局、先手4-二金まで。後手は王手すらできなかった。
ちょっと待てよこの将棋盤、どこか見覚えがある・・・まさかさま。
さほどの必要性がなかったのかも知れないが、昭和35年当時、僕たちにはMTBどころかチャリンコさえなかった。当時我が家にあったのは、リアカーとごっついタイヤ履いた運搬用自転車。それに父がこよなく愛した自動二輪『インディアン』『くろがね』と言うモンスターバイク。あとは二人乗りダイハツミゼット。そういえば、僕は自転車に乗っている仲間を見たことがなかった。わずかにあったのは、兄がたまに使用していたサイクリング用自転車のレンタル。昭和30年半ば、自転車はまだ日常の遊び道具ではなかったのだ。
学校から駆け足で帰り、玄関にランドセルをおいて部屋には上がらない。そして何人かの遊び友達と、桃谷や夕陽丘に集結する。そこから大阪市内をどこまでも歩いた。歩いて日が暮れるまで遊んだ。
ただ母の口癖~「通天閣のほうへは行ったらあかんよ」と、何時も釘を刺されてはいた。でもそう言われると…なぁ。
天王寺公園一帯、今は整備され〝形〟として整ったが、1960年代当時境界線はなかった。埋め立てで消えたのかも知れないが、茶臼山北側の小高い石垣の下、薄暗い日陰に小さな池がひっそり息づいていたが、ドンコは居たのかなぁ…
実は中学に上がってまもなく、 この池で小学校からの友達〝平ちゃん〟と言う大男と二人、どちらがガチンコ勝負に勝つか^お互いの得意技を競う話がクラス仲間から持ち上がった。そしてこの闘いの最終ステージは、茶臼山本陣から大阪城に場を移すこととあいなった。つづく
大阪都特許許可局局長っとっと…でもこれ、無くなったんだよね。 しかしこれでよかったのかな?でもね、僕自身は今こんなこと言っている場やいではないと思う^
「東京元気で日本元気」いいや世界も元気。 今こそ日本国民総力結集し、東京オリンピック無事開催・成功に向け一致団結する時なんだei ei OH!!!
まぁこれもさてを置いて、この天王寺公園がある上町台地の標高は約20mと結構高い。だが仮に、この一帯が冠水する大津波が…こんなこと考えたくないよねあ^ポロロン~きき 来た!つついに来た緊急地震警報・・・嘘ですほんの冗談です~来たのはフェイスブック仲間のメール。
「あのなぁ 天王寺のなぁ カメの池のな カメになぁ 豆やったらな カメ豆噛めまんねん」こんなのあったよね。東の高貴な方々には縁遠~いこのギャグのカメの池、本来は四天王寺境内の亀の池のことを言っているのだと思う。四天王寺のカメはもともとは〝クサガメ〟 写真の池の名前は河底池、通称〝ちゃぶ池〟と言う。この池、昔も今もコイやカメが群れている。この池のカメはどうやらアカミミやミドリガメか。ならばひょっとしてバスがいるはず^かどうか・・・
写真右の木々が慶沢園『旧住友本邸』の庭らしい。この庭園から、朱塗りの橋を渡ると、左にこんもり茂る森が標高26m茶臼山。うそ^結構高い…いいや、ここ上町台地からだとほんの5~6メートル。整備された石段をヒョイヒョイっと駈け上がれば頂上はすぐだ。なんだが上には何もない、ここはただのお散歩コースである。 なのに何時だって誰も歩いていないのだ。
さて写真、帰り支度ベンチのおばちゃま^このお池のご常連?何をなさっていたのかと思いきや、池の鯉やカメにパン屑を与えている^ように見せかけ本命はハト。さぁどうしょうか?寂しくって言うんじゃないが、そうだなぁお昼もまわったし王将にでも行くか^生で餃子食って、紹興酒で二ラレバ^551ばん豚マン買って帰ろうかな…ちょいとお待ちなさいましよ・・・えぇっと^これだよ。 巾着の中、一文銭がたった6枚じゃぁ素うろんも食えないよなぁ。
おわり










